妹が居た。
幼い頃に事故で親を亡くし、兄妹二人で慎ましく生きてきた。よくある話だ。
妹は家事をなんでもこなした。嫌な顔ひとつ見せない。周囲への愛想も良い。
誰からも愛される少女。唯々ひたむきで甲斐甲斐しいマリアベルが報われますようにと。
俺が両親の代わりに出来る事はただひとつ。
ミドルクラスの出でも、アッパークラスに引けを取らないほどの教養を彼女には付けさせようと、
金を稼ぐためなんでも仕事を請け負った。
結果、妹はある貴族に迎えられ、世界一幸せな花嫁になる事ができた。
――――それは、夢物語だった。妹は売られていた。裏の取引。人身売買。臓器提供。
数年かけて居場所を突き止めた町は、色とりどりのネオンが光り、女の媚びるような猫なで声、
麻薬でおかしくなった輩、ホームレスの集まり、人間の欲と闇でできた場所だった。
組織の奥には、捉えられた見目整った若者たちが男女問わず薬漬けになっていて、その中に妹も居た。
美しかった髪は白髪に乱れ、失禁しながら涎を垂らしてへらへらと笑っていた。
幼き日の辛さと喜びと、亡き父母の温もりを共有していた唯一の肉親は、
別人と見紛う程に変わり果てた姿で、腹が膨らんでいた。妊娠していた。双子もいたと。
彼女の話す事柄が、真実なのかはわからなかった。
薬のせいで、もしくは過酷な環境での立て続けの妊娠のせいか、
極度の栄養失調により歯が殆ど抜けていて言葉さえ聞き取りづらかった。

満月の夜。
煙草と薬莢、青臭さ。その中で、少年はひどく甘かった。特有のにおい。
人を殺める事で多幸感を得るブツでも服薬させられていたのだろうか。
ふらりと歩み寄る少年は、痛覚も溶けているのか。多重の鎖の枷によって傷ついた手首・足首。
与えられた暴力で折れているであろう、どす黒く腫れた腕に何の反応も示さなかった。
ただ、妹とは違った。口元に締まりがあり、失禁もしていない。
太陽の色をした髪にはまだ本来の光が、堕ちた瞳にはほんの少しだけ正気が灯っていた。
モード。
己と一回り近く歳が離れているであろう少年は、自らを女の名で名乗り、口元だけに笑みを浮かべ、
ジャラジャラと重い鎖の音を響かせながら、俺に死んで欲しいと告げた。
血で錆びたマチェットを向け、躓きながらもよろめいて、近寄り、乾いた声でうわずりせがむ。
しかし、世の中は金。力は買ってきた。
必要以上に稼いでいた金で暗殺者を何人も雇い、確実に潰すと固めた状態で乗り込んだ己には
細腕とその刃が届くことは無く、薬漬けの細身の身体は同類の闇の者に簡単に押さえつけられた。
彼の右手首に蛇のタトゥー。Haroldというスペルに絡みつくように捺されていた。
Harold_Piers　ハロルド・ピアーズ。男の名。　、少年を悟った。
捨て駒の如く――否、逃走の為の時間稼ぎとして鬼畜どもに飼われ、男の名を所有の証と共に封印させ、
女の名を与えられ、まるで娼婦のように慰みに奉仕させられていたのだろう。
暗殺者の銃がハロルドのこめかみをブチ抜く前に、俺は美しき襤褸を引き寄せた。
それは、鉄塊だった。甘さなどひとつもない、微かな温さを擁く。
冷えた殺意ですべてがひととき消え失せた。ハロルドはひとつ、音もなく小さくまばたき。
瞼から血が零れる。まだ華奢な掌から、鎖と共にすべりおちた、彼の錆びた生きるすべ。
負けたとふるえた唇の時に、もう笑みは無い。

――それで、終わり。妹の為になりふり構わず稼いだ金は、ほぼ組織の残党と共に消えた。